東京地方裁判所 平成8年(ワ)18347号 判決 1997年11月18日
原告
小宮山尚子
右訴訟代理人弁護士
田岡浩之
被告
医療法人財団東京厚生会
右代表者理事長
徳山代之
右訴訟代理人弁護士
遠矢登
主文
一 被告は原告に対し、金三三万円及びこれに対する平成八年八月二二日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 原告のその余の請求を棄却する。
三 訴訟費用は被告の負担とする。
四 この判決は、主文第一項に限り、仮に執行することができる。
事実及び理由
第一請求
一 被告は原告に対し、平成八年九月以降平成二四年一一月まで、毎月二五日限り金四七万一〇〇〇円(但し、七月は九三万一〇〇〇円、一二月は九五万一〇〇〇円)を支払え。
二 被告は原告に対し、金六〇〇万円及びこれに対する平成八年八月二二日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
第二事案の概要
本件は、看護婦である原告が、記録紛失等を理由に婦長から平看護婦に二段階降格した被告(病院)の措置を、違法・無効であると主張して、被告を自らの意思で退職した後に、被告に対し、債務不履行ないしは不法行為を理由に、右退職時から定年退職時までの賃金相当額の逸失利益等の賠償を求める損害賠償請求事件である。
(争いのない事実等)
証拠掲記のものは、争いのない事実及び証拠により認定した事実である。
一 当事者等
1 原告は、昭和二二年一一月一七日出生し、昭和四七年一〇月に看護婦になり、慶応大学付属病院、八丈島町立病院で看護婦、都南総合病院で主任看護婦として勤務した後、平成五年五月一〇日、被告との間で婦長として雇傭契約を締結した。
被告は、大森記念病院の経営を主たる目的とする医療法人であり、同病院は、内科、小児科、皮膚科、泌尿器科、外科、整形外科、透析科の各科を有しており、ベット数は平成八年七月三一日までは約一五〇床、同年八月一日以降は約一三〇弱床である。被告には、常勤の医師は五~六名、非常勤の医師は四~五名、常勤看護婦約二五名、非常勤の看護婦六~七名、ヘルパー及び事務職員約二〇名が所属している。
2 原告の本件降格以前の給与は、基本給三一万四六〇〇円、職務手当四万一〇〇〇円、勤続手当四万円、調整手当二万五四〇〇円、役付手当五万円、以上合計四七万一〇〇〇円は少なくとも受け取っていた。(<証拠略>)
被告における給与の支払いは、一五日締めの当月二五日払いである。(<証拠略>)
3 被告において、主任看護婦と婦長の違いは、職務の面に関しては、主任看護婦は各階の管理を行うのに対し、婦長はその上の、主任を含めての管理者であるという点に相異があり、待遇の面に関しては、婦長には五万円、主任には三万円の役付手当がつく。なお、平看護婦には役付手当はつかない。(<証拠・人証略>及び原告本人尋問の結果)
二 本件の経過
1 原告は、平成五年三月末まで、都南総合病院で主任看護婦として勤務していた。なお、右の都南総合病院には、神保君枝も婦長として勤務していた。
原告が平成五年四月一日から求職活動をしていたところ、神保君枝が、被告の代表者である院長の徳山代之(以下「徳山院長」という。)夫人から、被告が婦長を捜しているとの話を聞き、原告を紹介した。
原告は、平成五年五月上旬、徳山院長夫妻と面接し、その結果、原告を被告の婦長として雇用する、給与等については、原告が都南総合病院で得ていた収入を下回らないこととする旨合意した。
2 原告は、平成五年五月一〇日から、被告が経営している大森記念病院に婦長として勤務し始めたが、当時、被告には総婦長はおらず、婦長は野村婦長がいたものの同人は数日後に退職した。その約一か月後に、神保君枝(以下「神保総婦長」という。)が総婦長として着任したが、同人は平成七年三月に退職し、その約五か月後の平成七年八月に岩元美津子(以下「岩元総婦長」という。)が総婦長として着任している。
なお、大森記念病院は、野村婦長退職後平成八年八月一日まで、婦長はひとりであった。(<人証略>及び原告本人尋問の結果)
3 大森記念病院の看護婦の体制は、概ね総婦長一名、婦長一名、主任二名、その他の看護婦であり、主任は病棟の二~三階をそれぞれ管理し、婦長は病棟の二~三階に加えて、四、五、六階を管理し、総婦長は一階から六階までの全ての階を統括することになっている。
看護婦の予定表は、各階の看護婦についてあらかじめ作成される出勤の予定表である。右予定表は、二階は二階の主任、三、四階については原告が作成して、院長、総婦長、事務長に印を押捺してもらい、コピー三部を作成して、右三名に渡すほか、さらにコピーを二階の看護婦詰所(ナースステーション)に貼りだしてあった。なお、五、六階については四階の看護婦が担当している。そして、その後の勤務予定の変更については、貼りだしてあった予定表のコピーに、赤ボールペンで記入しており、「勤務表」と呼ばれていた。
右予定表と勤務表については、従来は、神保総婦長が総婦長室に保管していたが、神保総婦長が退職してから岩元総婦長が着任するまでの約五か月は二階の処置室の机の引き出しに保管してあり、岩元総婦長着任後も、同人の指示で、そのまま処置室の二つの机のうちの一つの机の引き出しに保管されていた。右の机は、原告専用の机ではないが、婦長には専用の個室及び机がないため、引き出しのうちのいくつかを原告が使用していた。なお、処置室にあるもう一つの机はリハビリのマッサージ師が使用していた。
4 平成八年六月ころ、その直前の法令の改正で、各階に看護婦詰所(ナースステーション)を作ることになったのに伴い、二階の処置室はロッカー室兼看護婦の休憩室にされることになり、ナースステーションの引越及び二階の処置室の改造が行われたが、原告は、その改造及び引越の日は休日(代休か公休)であったので、不在であった。
右改造及び引越に際しては、二階の処置室にあった机は移動され、机の中にあった予定表と勤務表は、一旦、紙袋に入れて四階へ持って行かれ、その後、再び、新たに整備された二階の原告のロッカーに移動された。(原告本人尋問の結果及び弁論の全趣旨)
5 岩元総婦長は原告に対し、平成八年七月初め、東京都衛生局が毎年一回実施している医療監査(被告の運営状況の医療監査をしている。)が、平成八年七月中旬に実施される予定とのことであったので、予定表の提出を求めた。
病院は、一年に何度か、東京都衛生局や保健所の行政監査を受けるが、その監査の監査項目のうちで重要なものとして、看護婦の人員配置と実際の勤務状況がある。病院では、医療内容やベッド数と、看護婦の人員配置が法律で厳格に定められており、この点の監査のために、予定表の提出が求められている。(<証拠・人証略>及び原告本人尋問の結果)
原告が予定表を探したところ、平成七年一二月分以降のものについてはすぐに見つかったが、平成七年一一月分以前の数か月分は、引越荷物の中に紛れて整理が未了であったらしく、他の予定表と一緒の場所になかった。
6 木村文士事務長(以下「木村事務長」という。)が原告に対し、平成八年七月二九日、午後五時二〇分ころ、同七年一一月分以前の予定表がなかったことは東京都衛生局の監査では何らの問題とはならなかったと伝えたが、さらに、予定表の管理が不十分であるので、原告を婦長から平看護婦に格下げする旨伝えた(以下「本件降格」という。)。
なお、被告において、本件以前には、原告を降格させる旨の具体的な話はなかった。(<人証略>)また、予定表を管理する責任は、当時、総婦長にあった。(<人証略>)
7 同日ころ、突然、二階病棟を含めた病院内に、原告が病院を辞めるかもしれないとか、くびになったらしいという噂がひろまった。(<証拠略>)
8 原告は、同日午後五時三〇分ころ、徳山代之院長と面会した。
9 原告は、同年七月三〇日、休日で出勤しなかった。
木村事務長は、同日午後一時四五分ころ、職員を集め、原告の予定表の管理に問題があるので平看護婦への降格処分をすると発表した。この集会で木村事務長は、原告がくびになったという噂が流れているが、被告側がくびにしたことはない、原告が勤務表をなくしたので、降格させて普通の看護婦にすると言ったところ、原告が辞めると言ったので辞めてもらったんだと言った。(<証拠略>)
10 木村事務長は、同月三一日午前、原告を降格処分にしたとする文書(<証拠略>)を配布した。右文書の内容は左記のとおりである。
今回の、婦長小宮山さんの役職の降格人事については、次の就業規則に基づいて実施した。また、これに伴い管理責任者である事務長に対して次のとおり制裁する。なお、直属の長である総婦長については、就任直後のことであり口頭注意とする。
今回の適用される就業規則
(規則遵守の義務)四条
病院及び職員は、この規則を遵守して、ともにその義務を履行しなければならない。
(服務の基本原則)五条
職員は、業務上の指示命令に従い自己の業務に専念し、能率の向上に努めるとともに、協力して病院の秩序を維持し発展に寄与しなければならない。
(服務心得)六条
職員は、次の事項を守らなければならない。
五号 病院の車輛・機械・器具その他の備品を大切にし、薬品・資材・動力・燃料その他の消耗品を合理的に使用し、節約に努め、書類は丁寧に取り扱いその管理を厳重にすること
(制裁)四一条
職員が次の各号の一に該当するときは、四二条の規定により制裁を行う。
二号 この規定その他病院の諸規程に違反したとき
六号 業務上の怠慢又は監督不行届によって災害事故を引き起こし、または病院の設備器具を損壊したとき
九号 病院の名誉または信用を傷つけたとき
(制裁の種類)四二条
制裁は、その情状に応じて、次の区分により理事長がこれを決める。
二号 減給
1 一回の額が一賃金支払期における賃金総額の一〇分の一以内を減ずる
2 減給の期間を六か月以内とする
今回の事務長に対する制裁
就業規則四一条一項六号の、「業務上の怠慢又は監督不行届によって災害事故を引き起こし、または病院の設備器具を損壊したとき」を適用し次のとおりとする。
減給 賃金総額の一〇分の一を減給三か月間とする。
なお、後に事務長に対する右懲戒減給処分は撤回された。
被告の就業規則一〇条(異動)は、「業務上必要あるときは、配置転換・職種変更を命ずる。」旨規定する。同四二条(制裁の種類)は、制裁として譴責、減給、出勤停止及び懲戒解雇のみを定め、降格ついての規定は存しない。(<証拠略>)また、被告において、近時、降格が行われた例は存しない。
11 原告は、同月三一日、所在がわからなくなっていた一一月以前の予定表を原告のロッカーの中から発見したが、発見したことは被告らに伝えなかった。(原告本人尋問の結果及び弁論の全趣旨)
12 木村事務長は、同年八月一日、午後二時三〇分ころ、勤務中の原告に対し、「今日からキャップを変えろ。」と述べた。看護婦の帽子には、総婦長は三本線、婦長は二本線、主任は一本線が入っており、平看護婦の帽子には線が入っていない。木村事務長は原告に対し、婦長から平看護婦への降格処分を強行する旨通告したのである。原告が返事をしなかったところ、木村事務長はそのままその場を離れた。
13 原告は、同月二日午前九時三〇分ころ、原告代理人の事務所へ行き、とりあえず、当日から有給休暇をとることとして、その場で電話によりその旨を被告に告げて了解を取り、その間に弁護士と相談して、降格処分には全く根拠がなく不当であるとして(また、予定表については原告代理人が保管中である旨も明記して)、同日付け内容証明郵便(<証拠略>)にて処分の撤回を求めた。
14 これに対し、被告は原告に対し、同月八日付けで、解雇通告はしていないこと、被告は予定表という重要書類を紛失した重大な職務違反を理由に降格したこと旨(ママ)述べた内容証明郵便(<証拠略>)を送付した。
15 そこで、原告は、原告代理人と協議のうえ、同月一六日付け文書(<証拠略>)で、被告の主張には明らかな事実誤認があることを指摘し、再度降格処分の撤回を求めたが、本件が病院内の紛争であって、患者を目の前にしてのトラブルは患者の生命にも直接関係する重大事態であることから、かりに被告が原告の右要求に応じない場合は、本件雇傭契約は、専ら被告の違法、不当な降格処分の強行によって維持できなくなったものであり、故意又は重大な過失が被告に存すること、原告は本件債務不履行による損害の賠償を求めることを意思表示したうえで、有給休暇の経過に伴って雇傭契約を解除する旨通知した。
16 なお、一時的に数か月分の予定表が見つからなかったことにより、被告に現実の損害、被害等は全くなかった。
17 被告は原告に対し、平成八年八月一六日から同年九月一五日までの賃金として、六日分一〇万一〇四〇円を支払った。(<証拠略>)
右賃金は、役職手当を除いた四二万一〇〇〇円を勤務日数二五日で除して算出された一日あたりの賃金額一万六八四〇円に、退職までの六日を乗じたものである。(<人証略>)
18 原告は、平成九年四月一日以降、他の病院にて看護婦として勤務している。(原告本人尋問の結果)
(争点)
一 本件降格の当否
二 民法六二八条但書に基づく損害賠償請求の当否
1 やむを得ない事由の有無
2 被告の過失の有無
3 損害の内容並びにその有無・金額
三 不法行為に基づく損害賠償請求の当否
1 賃金相当額の請求
(一) 自らの意思によって退職した場合、賃金相当額が損害といえるか。
(二) 損害の有無及びその金額
2 慰謝料・弁護士費用の請求
損害の有無及びその金額
(当事者の主張)
一 本件降格の当否
1 被告
本件降格は、本来的には人事異動であって、就業規則にいう制裁ではない。被用者の適性に従って、昇給したりあるいは降格することは使用者の裁量に属する。本件降格は、原告の管理職としての不適格を理由とする配置換えである。
本件降格は、原告の予定表という重要書類の紛失が、婦長の重責を担うに足りる資質を欠いていることの徴表であり、また日頃の勤務態度からして部下の人心掌握等管理職としての適性を明らかに欠いているためになされたものであり、病院組織の健全かつ円滑な運営上当然に許されるべき正当な人事異動であって、何らの違法性をも有するものではない。
原告は元々婦長職の経験がなく、被告に着任した際には、少なくとも婦長としての適性が不明であった。そして、就任後の原告の勤務状況を長期的に観察して、原告に適性なしと判断したものであり、予定表の紛失はひとつの徴表的きっかけである。原告の勤務表発見後の行動ひとつみても、原告が責任ある地位につく資質を欠いていることは明らかである。
被告の原告に対する降格処分は、直接には予定表という重要書類の紛失を原因とするものであるが、原告には、およそ管理職ないし中間管理職の職務を全うするに足りる資質に大きく欠けるところがあるため婦長職にふさわしくないと判断されたことによるものである。
(一) 職場放棄を何度か行った。
事務長・総婦長から業務についての指示があった場合、原告本人の意に反することであると、その後に無断で早退又は欠勤をしたことが数回あった。
今回についても、八月二日から出勤せず、同月五日に総婦長宛に「暫くの間、有給休暇をとります。」との電話で出勤しなかった。このため、原告の勤務日については、他の職員が穴埋めをした。
(二) 部下への差別
予定表を作成するにあたって、スタッフ個人からの勤務希望を前月二〇日までに提出し、スタッフ個人の希望を八〇パーセント程度受入れ、婦長又は主任が二五日ころまでに予定表を作成するが、ミーティング時に原告の意見に反対する発言をする職員又は気にいらない職員に対しては、希望を五〇パーセント程度の受入れで、予定表を作成することがあった。
(三) 新入職員に対して
新入職員に対し、「あなたの面接時に説明した給与等は信頼できない。」とひとりひとりに言っていた。
あなたの仕事は、看護婦として今まで何を行ってきたのか、これでは当病院では正しい看護業務をすることができないので、他の病院に移った方がよいのではないかなどと発言し、退職を勧める発言をしたことがあった。
中堅の看護婦が入職してくると、「あなたは、婦長か主任として約束されてきたのか。」と聞き、五枚の白衣を渡すことになっているものを二・三枚位しか渡さず、困らせたことがあった。
(四) 給与に対する職員への挑発行為賞与・昇給時になると、ひとりひとりに異常なほど「あなたは幾らもらった。」「幾らあがった。」等を聞いて、「私より多いことは許せない。」と発言したことがあった。
(五) 同性に対するいじめ
肥満型の看護婦が入職してきた際、「あなたはデブね。」と発言し、いじめをしたことがあった。
(六) 看護婦の離職
原告が在職しているために、退職をした看護婦が数名いた。
また、産休に入る看護婦も、産後の復帰を拒否した。
(七) 婦長としての管理能力
診療科目及びベット数についての把握及び就業規則等の規定を理解していなかった。
また、仕事として雑用が主になり、婦長としての管理業務を怠っていたことが多くあった。
(八) 看護婦の発言に対し
病院としての清潔・不潔物の区別をする必要があるのに、看護婦が進言すると、「当病院は当病院のやり方があるので、これで良い。」と発言し、改善することを拒むことがあった。
(九) 永年勤続の主任看護婦に対し
原告は、当病院で初めて婦長職になったため、高齢で勤続が長い主任看護婦に対し、「私は大名、あなたは小作。」というような発言をし、退職にもっていくようなことをした。
しかし、この主任看護婦は、「意地でも原告に負けて退職だけはしない。」と思い、岩元総婦長が着任して自分を認めてもらい、また、夫が当病院に入院中であり、「院長らに対し恩があるため定年後も少しでも力になりたい。」と、現在も勤務している。
(一〇) 昼休みにカラオケに行く
患者からもらったお金で、お気に入りの看護婦数名を連れて、昼休みに病院の前にあるカラオケに行っていた。
2 原告
本件降格は、無効・違法である。
本件降格は、懲戒に他ならないが、被告の就業規則四二条には、制裁の種類として、譴責、減給、出勤停止、懲戒解雇の四種類しか規定しておらず、降格は規定されておらず、この点からも、本件降格処分は無効である。
なお、被告が降格の理由として、追加する事実はいずれも事実無根である。原告は、昼休み中カラオケに行ったことはあるが、カラオケに行くことは禁止されていないし、また、患者からお金を貰って行った事実もない。
二 民法六二八条但書に基づく損害賠償請求の当否
1 原告
(一) 被告の本件降格は、民法六二八条の債務不履行を構成する。
(二) 被告は、原告の婦長としての労務提供を拒絶したことは明らかであり、本件降格が違法かつ不当な処分であって無効である以上、被告が、原告の婦長としての労務提供を拒絶したことは、違法な受領拒絶になることは明らかである。仮に、右が認められないとすると、原告は平看護婦として勤務しつつ、裁判で処分の無効を争う必要があったこととなるが、本件では、原告が平看護婦としての勤務を継続することは極めて困難なことは明らかであり、民法六二八条の要求するところでもない。
(三) 具体的な損害額等は次のとおりである。
(1) 賃金相当額の逸失利益
原告は、本件契約解除により、平成八年八月二二日以降定年として就業規則に定められた六五歳の誕生日の月までの賃金を失ったが、右は、一か月の基本給三一万四六〇〇円、役職手当五万円、その他手当合計一〇万六四〇〇円の総合計四七万一〇〇〇円を下回らない。なお、支払日は毎月二五日である。
右のほか、原告の賞与は、平成七年一二月に四八万円、平成八年七月に四六万円であった。なお、支払日は第二土曜である。
(2) 慰謝料
原告は、被告により、本件の違法、不当な二階級の降格処分をされ、就業中婦長の帽子をとって平看護婦の帽子に変えるよう命じられる等の侮辱を受け、さらに、最終的には職業及び賃金を失うなどして甚だしい精神的苦痛を被った。原告の精神的苦痛を慰謝するには、少なくとも五〇〇万円以上の慰謝料を支払うのが妥当である。
(3) 弁護士費用
原告は、本訴遂行を原告代理人に委任し、諸費用のほか、着手金として四〇万円を支払い、第一審判決時に報酬として六〇万円を支払う旨約した。右も本件被告の降格処分と相当因果関係があり、かつ被告が支払うべき損害である。
2 被告
争う。
原告の本訴請求は、債務の内容、損害の発生及び相当因果関係の各点で根拠を欠くものである。
原告は自ら退職届を提出して、平成八年八月二一日をもって退職しているのであるから、たとえ退職の遠因が本件降格処分にあったとしても、退職という自己の行為が介在している以上、本件降格と損害との間に相当因果関係が存するとはいえない。
原告は賠償を求めるべき損害として、定年に至るまでの賃金全部等を請求しているが、自ら退職して雇傭関係が終了し、何らの労務の提供もないのに、その後の賃金を請求するなど、ノーワークノーペイの原則を援用するまでもなく、全く法的根拠を欠くものであって、他の慰謝料や弁護士費用も何らの請求の根拠は存しないものである。
なお、仮に、降格の点で、原告になにがしかの精神的苦痛を与えたとしても、正当な人事権に基づく組織防衛上やむを得ない人事異動は、違法性を帯びるものではない。
三 不法行為に基づく損害賠償請求の当否
1 原告
被告の本件降格は、原告に対する不法行為を構成する。
その余の主張は、民法六二八条但書に基づく損害賠償請求に関しての原告主張と同様である。
2 被告
争う。
原告主張に対する反論は、民法六二八条但書に基づく損害賠償請求に関しての被告主張と同様である。
第三争点に対する判断
一 本件降格の適否
本件降格は、前記の事実に照らすと、被告が、予定表の紛失を理由に、原告を管理職不適と判断して、人事権に基づき降格したものと認められる。
一般に、使用者には、労働者を企業組織の中で位置づけ、その役割を定める権限(人事権)があることが予定されているといえるが、被告においても、就業規則一〇条(異動)は「業務上必要あるときは、配置転換・職種変更を命ずる。」旨規定しており、したがって、本件においても、被告は、右人事権を行使することにより、労働者を降格することができる。
原告は、本件降格は懲戒である旨主張するが、被告における就業規則四二条は懲戒の種類として降格を定めていないし、また、被告の平成八年七月三一日の文書(<証拠略>)によっても、木村事務長に対しては制裁として減給にする旨明らかにしているが、原告に対する降格については格別制裁として行う旨の表示も存しない。してみれば、原告の右主張は理由がない。
このように、本件降格は、被告において人事権の行使として行われたものと認められるところ、降格を含む人事権の行使は、基本的に使用者の経営上の裁量判断に属し、社会通念上著しく妥当性を欠き、権利の濫用にあたると認められない限り違法とはならないと解されるが、使用者に委ねられた裁量判断を逸脱しているか否かを判断するにあたっては、使用者側における業務上・組織上の必要性の有無及びその程度、能力・適性の欠如等の労働者側における帰責性の有無及びその程度、労働者の受ける不利益の性質及びその程度、当該企業体における昇進・降格の運用状況等の事情を総合考慮すべきである。
前記のとおり、婦長と平看護婦は待遇面では役付手当五万円が付くか否かにしか違いがないうえに、本件降格が予定表という重要書類の紛失を理由としていることなどに照らすと、被告が降格を行うとの判断をしたことは一応理解できなくはないけれども、一方、<1>本件降格が実施された直後に、原告が予定表を発見していることに照らすと、被告が原告に対し、紛失した予定表を徹底的に探すように命じたのか否かにつき疑問も存し、予定表の発見が遅れたことについて原告のみを責めることもできないこと、<2>予定表の紛失は一過性のものであり、原告の管理職としての能力・適性を全く否定するものとは断じ難いこと、<3>近時、被告において降格は全く行われておらず、また、<4>原告は婦長就任の含みで被告に採用された経緯が存すること、<5>勤務表紛失によって被告に具体的な損害は全く発生していないこと等の事情も認められるのであって、以上の諸事情を総合考慮すると、本件においては、被告において、原告を婦長から平看護婦に二段階降格しなければならないほどの業務上の必要性があるとはいえず、結局、本件降格はその裁量判断を逸脱したものといわざるを得ない。
なお、被告は、他に、原告の、(1)職場放棄、(2)部下への差別、(3)新入職員に対する退職勧奨やいじめ、(4)給与に対する職員への挑発行為、(5)肥満型の看護婦に対してデブと発言し、いじめたこと、(6)原告が在職ゆえに他の看護婦が離職していること、(7)婦長としての管理業務を怠っていること、(8)病院の改善を進言する他の看護婦の発言に対し聞く耳を持たないこと、(9)永年勤続の主任看護婦に対して嫌がらせの発言をしていること、(10)昼休みに患者も(ママ)らったお金でカラオケに行っていること等の事実を主張し、これらについても本件降格の理由である旨主張しているけれども、被告の右主張にかかる事実は、それ自体、時期や内容等が漠然としたものであるばかりか、右事実を認めるに足る格別な証拠もなく、また、被告自身も、予定表の紛失が問題になる以前には、原告を降格する旨の具体的な話はなかった旨自認しているのであるから、原(ママ)告の右主張は採用することができない。
以上のとおりであるから、本件降格は無効・違法なものである。
二 民法六二八条但書に基づく損害賠償請求の当否
原告は、民法六二八条但書を根拠に、定年までの賃金相当額の逸失利益、慰謝料及び弁護士費用の請求をしているが、民法六二八条は「当事者が雇傭の期間を定めたるときといえども、やむことを得ざる事由あるときは各当事者は直ちに契約の解除をなすことを得。但し、その事由が当事者の一方の過失に因りて生じたるときは相手方に対して損害賠償の責めに任ず。」と即時解雇について規定しているのであって、同条但書の規定する損害賠償請求を肯定するためには、即時解雇につきやむを得ない事由の存するほか、相手方に過失の存することを要し、また、右損害賠償請求における損害の範囲も、予告期間をおきえずに即時に解雇したした(ママ)ことによる損害に限られるものと解される。
前記の事実に照らせば、本件においては、原告に、民法六二七条の予告解除の規定によらずして、即時解雇を行わなければならない「やむを得ない事由」が存するとは認めることができず、また、原告に即時解雇ゆえに生じた損害も認められないから、他に格別の主張立証のない本件においては、原告の右請求は理由がない。
三 不法行為に基づく損害賠償請求の当否
1 賃金相当額の逸失利益の請求
民法六二四条は報酬後払いの原則を規定しており、賃金債権は現実の労務の給付ないし履行の提供によって発生するから、仮に、使用者が違法な降格をしたことによって労務の受領を拒絶する意思を明確にした場合であっても、労働者は少なくとも労務の提供の準備はすることを要する。したがって、労働者が自らの意思によって辞職するなどして労務提供の履行可能性がなくなった場合には、賃金債権はそもそも発生しないから、仮に違法な降格解雇(ママ)があったとしても、それによって賃金債権相当額の損害を被るということにはならないものと解される。
本件においては、前記のとおり、本件降格後、被告が、原告の婦長としての労務提供を受領拒否したのに対し、原告は、そのまま婦長としての労務提供ないしはその準備を継続することなく、原告代理人と協議のうえ、自らの意思に基づき雇傭契約を解約し、原告の被告に対する労務提供(婦長としてのそれも含む。)の可能性を喪失させているのであるから、右退職日以降の賃金相当額の逸失利益の賠償を求める原告の請求は理由がない。
2 慰謝料請求等
前記のとおり本件降格は違法であり、また、前記の事実に照らすと、被告には少なくとも過失が存する旨認められるところ、前記説示の事情に照らすと、本件降格によって原告が受けた精神的苦痛を慰謝するために相当な額は三〇万円を下らないと認める。また、本件事案の性質、審理の経過、認容額にかんがみると、原告が本件降格による損害として賠償を求め得る弁護士費用の額は三万円を下らないと認める。
第四結論
以上のとおりであるから、原告の請求は、慰謝料三〇万円及び弁護士費用三万円並びにこれらに対する本件降格の実施日の後である平成八年八月二二日から支払済みまで年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由がある。
(裁判官 三浦隆志)